旧軍関連収集品
(軍装品...etc) Part Wa



その他、資料…etc




満州事変記念に満州鉄道株式会社が作った記念の置物(大阪生駒時計店謹製)





ある曹長さんの記録

下に幾つかの書類と名刺、軍隊手帖がります。
左は、昭和20年8月31日と9月1日の身分証明と従軍証明です。右は、
軍隊手帖と名刺(下2枚)です。


軍隊手帖より、この方は、明治41年京都出身の男性で階級は
、陸軍曹長、兵種は、輜重兵です。所属は、第16師団 輜重兵
第16大隊となっております。入営前の履歴は、高等小学校卒業
後、15歳より桶職人見習として修行中の身であったようです。こ
の方の軍歴は、昭和2年1月10日に現役志願兵として輜重兵第
十六大隊に入隊する事から始まります。第一期を卒業し同年11
月に一等卒、翌3年4月には、上等兵に昇進する。同年11月末
日に現役満期となり退嬰。予備役編入される。昭和3年2月末日
に精勤賞を授与。同年11月末日には、善行章を付与されている
。予備役編入後は、在所にありて昭和4年、6年、8年、10年と
2年おきに観閲点呼を受けています。昭和11年8月に勤務演習
の為、臨時応召を受けて、すぐに解除され、この時に下士官適任
証を与えられる。翌12年7月に動員下例により8月、充員召集の
為、工兵第16連隊に応召集される。すぐに第一渡河材料中隊に
編入される。翌13年7月に伍長に任じられる。翌14年、3月に
軍曹に昇進。この昭和12年より材料中隊に配属後は、すぐに
宇品港を出発、釜山港上陸し朝鮮国境を通過して満支国境も通
過して部隊と共に支那駐屯軍隷下の第10師団に配属される。津
浦沿線を転戦し馬廠、徳州付近での戦闘に参加する。その後、
部隊は、第2軍、第10軍の隷下に移り12年11月に塘沽港を出
発し、杭州湾上陸、第114師団に組み入れらて湖東会戦に参加。
12月中旬には、第10軍直轄部隊となり南京追激戦に参加、続い
て杭州攻略作戦に参加後12月19日に第18師団に配属され
杭州における警備勤務に就く。その後、再び第10軍の直轄部隊
に戻り、翌13年1月末より上海における警備勤務。2月中旬に
中支那派遣軍の隷下に入り第101師団に配属される。2月末より
祟明島及台作戦に参加して上海付近の警備任務、4月末には、
徐州会戦竝上海蘇州付近の警備、6月からは、阜寧付近掃討戦
に参加、7月には、第11軍隷下に入る。こうしてその後も武漢攻
略、南昌攻略などの日中戦争の主要な戦いに参戦し、陸軍軍曹
となり昭和14年12月25日に内地に帰還する。同年12月30日
に召集解除となる。翌15年4月末に支那事変の功に依り勲七等
青色桐葉章を授与される。同日、支那事変従軍記念章も授かる。
この軍曹さんは、32歳になり民間に戻る事となる。そうして一息つ
く間も無い3年後の昭和18年12月2日に臨時召集が下り、中部
第43部隊に応召され、同日、西田隊に編入される。翌19年10月
末に大阪陸軍航空補給廠要員として中部第40部隊に隷属となり、
荒木田隊に編入される。その後、大阪陸軍航空補給廠附きとなり
昭和20年3月1日、陸軍曹長に任じられる。その後、同年8月15
日、敗戦を大阪で迎える。…37歳の時であった。




ある陸軍工兵少尉の記録



下の画像は、陸軍少尉の肩章と付箋のついた
軍隊手帖です。手帖の付箋には、明治四十二
年徴集 予備役陸軍工兵軍曹○○○○とあり、
一月十日付 任官の為、不用に付返戻とあります

軍隊手帖から明治17年生まれの大分の方で身分は、士族。
一年志願兵として入営。兵科は、工兵で所属は、近衛師団 
鉄道連隊第四中隊に現役一年を明治42年12月1日より明治
43年11月末日までの入営となっています。軍歴は面白いよ
うにスピード出世しています。明治43年4月1日に一等卒、
6月4日に上等兵。11月30日に伍長に昇進。一年現役の終
わる最終日の11月末日に志願兵終末試験及び等級昇進証
書付典にて工兵軍曹に昇進して除隊しています。翌年の
観閲点呼は、執行済みで明治44年9月1日に鉄道連隊第一
中隊に入隊、翌日、予備見習士官に任じられる。11月30日
召集解除となっております。大正元年(明治45年)の観閲点
呼執行済を最後に履歴欄の記載は、無くなっています。…下
の画像より大正2年1月10日に陸軍工兵少尉に任官してお
りますので、軍隊手帖の表紙の付箋の1月10日付は、大正
2年に一度返戻した物と思われます。明治45年6月15日に
鉄道院の技手に任じられています。鉄道院は、後の鉄道省、
戦後は、運輸省となり現在の国土交通省となるので予備役
見習士官で鉄道院の官吏となったものと思われます。




明治17年生まれですので初めの現役志願兵の時が25歳です。翌年には
軍曹。27歳で予備見習士官。28歳で鉄道員技手。大正2年、29歳で工兵
少尉任官。そのまま鉄道院に勤続しながら大正13年には、旧鉄道省の
鉄道技師に昇格し高等官七等に任じられています。この時点で40歳になら
れています。最後の画像の昭和10年7月に国勢調査員に命じられたのは
51歳の時です。既に職を辞されて名誉職みたいなものかと推察します。

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(補足)一年志願兵制度ですが1927年(昭和2年)に幹部候補生制度に
変わった前身の制度です。この一年志願兵制度は、旧制中学卒業以上の
学歴を対象に当時は、一般徴集兵の在営期間3年(後に2年になるが)の
ところを一年の在営期間で最終的には、予備役少尉まで昇進する事がで
きました。但し、一年の在営期間の食費や被服等は、自前持ちでした。上
記の幹候制度がスタートすると甲種と乙種に別れ、甲種は、見習士官を経
て予備士官に、乙種は、下士官に短気養成して、戦場で最も消費される
下級将校と下士官の補充を計りました。但し、海軍の予備士官制度と違い
陸軍では、最初の一年は、兵として勤務し二年兵よりスタートしました。こ
の為、辛い思いをしない海軍へ行きたがる学生が多かったと言われていま
す。また、支那事変が勃発した頃の陸軍将校は、一万一千名程度でした
が、この幹部候補生制度により下級将校の急造で昭和14年には、将校の
数は、六万五千名に達し、敗戦時には、二十五万名もの将校が居りました。
この在営一年は、ドンドンと短縮化されて最後には、4ヶ月と言う短さになり
ました。それだけ下級将校の戦死、消耗が激しかった事を意味しています。
しかし、急造の将校の増加は、質の低下を招き…精強を誇った帝國陸軍の
戦意、戦力に大きな影を落とした事も指摘されています。(尚、各種士官学
校、幹部候補生制度、海軍予備士官制度等に関しては、当HPの鎮魂(req
iem)の中で説明を入れてありますので御参照下さい。




海軍手帖と写真と肩章



下にあるのは、昭和20年度版の海軍手帖と個人の手帖に
3枚の写真、そして少尉候補生の肩章一対でしょうか。写真
の顔が似ているので3枚とも同一人物なのか、兄弟でしょう
か?…不明です。一番左の水兵服の写真は、ぺネントが
佐世保海兵団と読めます。右の2枚の画像は、一種と二種
の海兵生徒の軍衣袴を着ております。別人のような気もし
ますが、水兵さんと右端の二種服の方は、非常に良く似て
います。兄弟のような感じです。…海軍手帖には、何の記載
もありませんが…私物の手帳の方には、海軍体操の順番や
モールス信号、手旗信号の記載と手書きで様々な軍歌の歌
詞が書かれています。






ある海軍上等機関兵曹の履歴表と戦友の寄せ書
           (魚雷艇要員)



この海軍履歴表は、昭和9年12月1日の現役編入より始まります。
大阪市に住む方で本籍地は、奈良県です。所属は、呉鎮守府…
兵種は、機関兵となっております。昭和10年1月に呉海兵団に入団
。四等機関兵を振り出しに三等機関兵で駆逐艦”叢雲”乗り組みに
なり、第四艦隊第12駆逐隊の所属となる。昭和11年五月1日に
海軍二等機関兵に昇進。そのまま第12駆逐隊所属の叢雲乗組。
翌年11月1日、一等機関兵に昇進。兵役法の規定により服役が延
長され、呉鎮の所属となる。昭和11年11月に舞鶴防備隊勤務にな
り特設掃海艇”八幡丸”乗組となる。昭和12年12月第三艦隊に編
入され、第二掃海隊の所属となる。昭和13年2月、普通善行章が
一線付典される。同年8月、一時、支那方面艦隊に八幡丸は、編入
される。同年12月、海軍三等機関兵曹に昇進し呉鎮所属になる。
12月10日、服役優等証が下付され、服役延期が解除され満期除
隊となる。その後、民間にて観閲点呼を毎年受けて開戦後すぐの
昭和16年12月12月13日、呉鎮所属で充員召集を受ける。呉海兵
団の団内臨時勤務となり、昭和17年1月に第1回電気技術臨時講
習を受ける。同年4月、佐伯防備隊所属となり興亜丸乗組となる。
同年8月には、繋留気球講習を千葉市の東部第76部隊に派遣され
受講する。同年11月、海軍二等機関兵曹に任じられる。同年12月
、第31号哨戒艇の乗組となる。昭和18年1月、紀伊防備隊付となり
、9月19日〜10月末日までオデリー丸乗組となる。同年11月、海軍
水雷学校に入校。同時に海軍一等機関兵曹に昇進。同年12月13
日、水雷学校・魚雷艇講習終了、同日、呉潜水艦基地隊付を命ぜ
られる。昭和19年3月普通善行章一線附典(計二線)される。同年
8月、結婚・入籍。同年10月18日、佐世保防備隊付を命ぜられる。
同年11月海軍上等機関兵曹。昭和20年7月13日、佐世保防備隊
所属の第35突撃隊付となる。同年8月20日基地に赴任。同年9月1
日、解隊により任務を解かれる。

戦友の寄書きは、昭和19年の記載があるので呉潜水艦基地と佐世保防備隊
の何れかで魚雷艇要員として勤務していた時と思われます。


以下の画像は、珍しい魚雷艇の乗務体験と爆雷投下
訓練の画像です。いずれも海軍予備士官の訓練風景
です。



各種、日本の魚雷艇の画像です。大海軍を誇った
日本海軍は、小型戦闘艇である魚雷艇の開発・運
用に出遅れました。欧米が魚雷艇を活躍させて大き
な戦果を上げたのに対して日本は、殆ど目立った
活躍をしませんでした。
上の左画像は、建造中のT-1型の第一号魚雷艇
右上の画像は、開戦前に公試中の第二号魚雷艇
38ノットの高速を出し最も成功した日本の魚雷艇
と言われています。下は、外用行動を想定して大
型化が図られた第十四号魚雷艇の公試中の写真
です。大型化の為、速度は29ノットと低速になった
そうです。


敗戦の半年前に舞鶴で試験中の乙型魚雷艇。両弦
の落射機に45cm魚雷が搭載されているのがわかり
ます。ブリッジ後方の機銃は、13mm単装機銃です。
艇尾スロープ部に爆雷の搭載が可能であった。




海軍現役兵証書



珍しい現役兵証書です。同じ方の青年訓練手帳(村立大和)
大正5年7月1日〜昭和4年12月25日もあります。海軍の
現役兵証書には、甲種水兵第壱番山内寛・右現役兵ニ徴集
シ左ノ通入営ヲ命ス・・・。この方は満二十歳の徴兵検査で
甲種合格された人です。




海軍上等兵曹の海軍履歴表






この履歴表の方は、大正9年元旦生まれの福岡出身です。入隊前の職業は、
木工仕上工職人となっています。昭和15年12月1日に現役編入、翌年1月、
佐世保海兵団に入団。海軍四等水兵となります。同年4月15日、三等水兵に
昇進し、軍艦 出雲 乗組となります。以降は、出雲に乗艦し、支那方面艦隊
で戦地勤務。以降、昭和17年4月初旬まで同艦にて勤務。4月12日、臨時・
機雷水中測的特技兵として海軍機雷学校に入校。5月1日、海軍二等水兵に
昇進。8月15日、同校卒業。同日、鎮海防備隊付を命ぜられ、8月18日、
釜山着入隊となる。11月11日海軍上等水兵に昇進。昭和19年2月10日ま
で海上勤務配置となる(18年元旦、特技章を付与)。18年5月1日、海軍水
兵長に昇進。18年12月、現役延長2年となる。11月3日婚姻許可。12月1
日、志願兵籍に移籍。昭和19年2月1日、普通善行章一線付与となる。同年
2月27日、高等科水測術練習生(第11期)として海軍機雷学校封潜学校に
入校。5月1日、海軍二等兵曹に任じられる。7月27日、同校卒業。同日、佐
世保防備隊付を命ぜられ、7月29日、入隊海上配置勤務(水中測的員)とな
る。9月25日、第52号海防艦乗組を命ぜられ、10月3日、門司港を出港(戦
務甲)…南支那海方面にて船団護衛任務に就く。昭和20年元旦、門司港帰
港(戦務丁)。1月5日、第22海防隊編入。1月24日、門司港出港、太平洋方
面に(戦務甲)。3月4日、門司港帰港。3月21日〜4月29日、太平洋方面へ
(戦務甲)。5月1日、海軍一等兵曹に任じられる。5月2日〜7月5日、太平洋
方面(戦務甲)。7月5日、舞鶴入港。7月20日、大湊警備府府護衛部隊に編
入。7月22日、津軽防備部隊に編入。敗戦後、9月1日、海軍上等兵曹に任じ
られ同日、予備役に編入されています。この方の軍歴は、調度、日米戦の回線
一年前より始まり、敗戦までを海軍で過ごしております。運がよい方なのでしょ
う。一度も南方勤務する事無く、戦争の初期から中期までは、比較的安全な支
那方面、その後も本国周辺での勤務が敗戦まで続いておりました。尚、この方
は、高等科水測術章(高等科特技章)と海軍小銃優等章を受けております。ま
た昭和16年度の支那方面艦隊射撃幹部付検定にて褒賞を授与されています。
模範的な叩き上げの下士官であり、帝國海軍の終焉と共に海軍下士官の最高
位に上り詰め約6年に及ぶ軍歴を終えています。




明治〜大正と古き良き時代…ある一等兵曹の履歴表




明治41年9月に志願兵として海軍に入隊。大正四年10月31日に現役
満期除隊をされた一等兵曹殿の履歴表です。在籍鎮守府は、横須賀。
主に駆逐艦の乗組みが当初、多くその後は、長く入退院を繰り返して
います。しかし出世は、早く大湊防備隊を経て戦艦 金剛 乗組みにな
っています。これがこの方の最も良い戦闘艦艇への任務のようです。
最後は、横須賀海兵団の教員として現役生活を終えております。海軍
の下士官の最高位に立ち善行章四線を腕に入れていればもう怖いも
のは無かった事でしょう。




海軍の門鑑(通行証)



出入りの商人や職人の門監です。戦艦”金剛”、”陸奥”に
海軍砲術学校です。うち三枚は、同一人物です。手広く海軍
さん相手に商売をしていたのでしょう。門監にも甲乙丙がある
ようで、以下、4枚は、甲種になっています、珍しいものです。







海軍工廠の工員の身分証明書



上記の商人や職人は、部外者の門鑑です。こちらは、
海軍の雇用労働者の為のものです。





陸軍営門の門鑑(通行証)



表に歩兵第六連隊・通門鑑の焼印、裏に138の焼印
があります。大きさ幅60o・高さ70o・厚7o

輜重兵第三大隊補充隊印・第三八号・通門証。吉田の
名前が木札の横の部分に墨書されています。この方は
常時外出が必要な職務があった方のようでで専用の
通門証のようです。
     大きさ幅58o・高さ74o・厚9o

輜重第三大隊印・第十三号.通門証。
  大きさ60o・高さ76o・厚9o




手旗(陸軍・海軍)



陸軍手旗

手旗は通常は赤白の大きさは同じですが、この
旗は遠くから見た時に赤は目立つが白は目立た
ないので大きさを変えた旗です。
     大きさ赤33x33cm。白38x38cm。



海軍手旗






〜満州関連〜



満州帝国の国旗



かなり痛みがありますが…当時の満州帝国の
国旗です。縦約67センチ、横約94センチ


こちらは、小さな満州帝國の国旗です。恐らく当時、商店街や
その他で万国旗として使われていたものと想像します。

因みに、満州帝国は、かって日本が後ろ楯となり五族協和の
旗印に最後の清朝皇帝・溥儀(ラストエンペラーで有名な)を
皇帝として招き建国されました。当時、この国を承認した国は
以下となります。

日本・エルサルバドル・バチカン・イタリア・スペイン・ドイツ
・ポーランド・ハンガリー・スロバキア・中国(汪兆銘政権)
・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・クロアチア・デンマーク
・タイ・ビルマ・フィリピンの18カ国に及びました。主に枢軸国
など同盟関係や友好国が中心でした。
上記の画像は、満州帝國の建国宣言です。1932年から敗戦の1945年
と言う僅かな年月に仇花のように咲いた…幻の国家…満州国は、今の
中国東北部から内モンゴルの自治区の一部までの広大な地域でした。
王道楽土…八紘一宇…五族協和と言う言葉が脳裡に浮かびます。国旗
の5色は、その五族協和を指していると言われています。青が漢民族を、
赤が大和民族(日本民族)を、白がモンゴル民族を、黄色が満州民族を、
黒が朝鮮民族を表し五民族が共に手を携え暮らす国を夢見ました…この
国は、これら満州人による民族自決の原則に基つづいた国民国家を理念
としました。国家元首を愛新覚羅溥儀を執政(後に皇帝)とし日本の敗戦
まで束の間の夢物語を形成しました。

満州国軍の大日本義勇軍防諜徽章
裏に裏に純銀の刻印があり油紙包まれていた品です。
恐らく未使用だったようです。

満州帝国 国勢調査記念(康徳七年十月一日:1940)



満州軍人後援会普通賛助員章
底角に欠けありますが、オリジナル桐箱
があり、良く見られる星章の欠落の無い
完全な品です。

大満州国建国功労章        満州国皇帝訪日記念章

建国神廟創建記念章

国境事変(ノモハン事変)記念章

cf.国境事変記念章のお話
上の画像のように三つの国境日事変記念章があります。この記念章は、二種類
ある事が知られています。製作地により二種類になりますが、以下に三つを拡大
した画像を示します。
製作地ですが満州と日本の本国により二種類に分けられます。その違い
ですが記念章表の鳩と地図にあります。真中の鳩が細い鳩である場合は、
日本の本国で製作された物です。対して真中の鳩が太い鳩が満州で作ら
れた記念章となります。また鳩の下の地球儀の地図ですが満州製作の記念
章には、朝鮮半島が描かれており、対して日本の本国で生産された記念章
は、日本本土の一部が描かれています。画像のうちの三つの中では、お判り
のように真中の物が満州製作の記念章となります。両側の記念章は、本国製
作のものです。こうした違いを探して見るのも面白いものだと思います。


珍しい国境事変従軍記章證書です。康徳七年。證書は、
勲章よりも希少品で滅多に見ません。

勲八位 満州国景雲勲章

勲五位 満州国景雲勲章


以下は、同一人物の勲記の証書など三点です。
持主だった方は、陸軍歩兵二等兵となっており
ます。
満州帝國「建国功労章證書」
左は「外国記章佩用免許證」で右は「昭和六年至九年
事変従軍記章之證」です。外国から授与された勲章の
佩用にも許可が必要で免許証がある事が不思議な感
じがします。



満州国赤十字社章
康徳五年の物です。
合せ桐箱付





康徳6年・満州建設勤労奉仕記念章


満州国より贈られた銀製シガレットケース

表面に七宝の満州国旗と、牡丹の彫刻のなされた
銀製(上に「SILVER 0.950」と燕の様な刻印がある
)のシガレットケースです。重量は本体のみで約
130gあります。内側には、来歴が記されております。

日本の皇室・宮家の御下賜の銀製のシガレットケース
は見かける事がありますが、満州国のものは、非常に
珍しいと思われます。


南満州鉄道の株券です。
こちらの二枚の満鉄の株券は、某有名な海軍々人の遺族が購入されたものです。




旧・満鉄の書類クリップです。満鉄の刻印があります。




南満州鉄道 ”フォーク&ナイフ” 2種5本と”スプーン”



満鉄及び関連会社・ホテル等が使用した物。
ナイフ:全長210mm、フォーク:全長180o。


満鉄のマークのある大型のスプーンです。




南満州鉄道乗車券・旅行関係許可書等一式










満州国庚徳9年(昭和17年)に日本人姉弟の満州視察目的で旅行、当時
国外旅行には各種の制約が有り、その関係の書類一式です。南満州鉄道
乗車券・日本旅行協会発行(朝鮮・京城)自満州大連→至朝鮮安東・2等
1枚(帰りの券)。奉天鉄道警護本隊長・予防接種済証明書・新京鉄道警
護隊長・住居証明書2枚(姉弟)。ロシヤ文の領収書1枚。紹介状一通。旅
程表2枚。電報送達紙(連絡文章)1枚。封筒・朝鮮総督府鉄道局内東亜
旅行社1枚。関係者名刺4枚。旅程表を見ますと特急アジア号に乗った記
録が有ります。ヤマトホテルは満鉄が経営していて一般人は泊まる事出来
ませんが、紹介状の通り特別な人です。ヤマトホテルは現在も有ります。

左が大連のヤマトホテル。前の銅像は、関東都督であった大島大将。右は、亜細亜号




”南満州鉄道株式会社”の大表札



この表札の取り付け場所は、今となっては、不明です。
満鉄関連会社は、数十社がありました。これ等は、個々
の社名を持っていたので、考えられるのは、満鉄の大連
本社・総局・東京支店・大連・奉天・吉林・錦州・牡丹江
・齋々哈爾・哈爾濱・七鉄道局の計十箇所の関連と考え
られるとの事、この表札は、裏を見ると釘穴跡を見ると吊
る下がりでなく、打ち付けられていたようです。何方かが
敗戦の時に惜しんで看板と共に本国に持ち帰ったのでし
ょうか??
材質・欅。文字陰字(彫り文字)銀色彩色が残ってます。




南満州鉄道の大社旗




”大連埠頭運動会・昭和五年五月一日・必勝”
とあります。毎年、満鉄の各地方局の代表選手
による対抗競技が行われたそうです。その時の
応援の旗です。絹製手書で大きさ縦90cm、横
120cm。…ありし日の満鉄の栄光時代を偲ばせ
る様な気がします。

大連の満鉄本社

灰皿


満鉄の鍔型メダル
大正四年 満州大連道場剣道大会


満鉄で使用された五玉の算盤

真鍮製の満鉄で使用された定規です。
大連の文字が入っています。


昭和16年製の満鉄の飯盒です。






旧満鉄社服 各種



満鉄の社服です。右側の胸には懐中時計を
入れるポケットが付いてます。


こちらは、上と違う満鉄の制服です。虫食いが多く
片袖の袖釦がなくなっています。納入は、系列企業
の大連工業(株)になっています。


下に参考の為、知人の所持している国鉄の昭和20年、
戦時国防色型の制服を載せます。満鉄も国鉄も襟にカラ
ーが付くようになっています。





満鉄の制帽




旧満鉄の制帽です。


満鉄 ベルトのバックル







満鉄の防寒帽



非常に状態の良い、南満州鉄道株式会社(満鉄)従業員用防寒帽。
マ・昭19・本・大・奉天のスタンプあり、昭和19年本廠検定の大号
内部の毛皮の状態も良く、無記名で未使用の極美品です。




満鉄の腕章








南満州鉄道 ”新京行〜大連行”行先板(琺瑯製)





アカシヤの街 大連 満鉄本社は現在も保存され、当時の姿そのままに
毅然と建っています。大連広場(ロータリー)には当時の建築群が立ち
並んでいます。三十五万人いたとも云われる社員の総合病院は赤レン
ガ造りで広大な敷地に建ち、現在も病院として使用されています。…壮
大な夢物語のような満州…日本人が夢見て大風呂敷を広げた幻の帝
國ですが…今の日本人から見ると、当時の日本人の方がロマンとも…
器が大きいというか…違いを感じます。




南満州鉄道 ”奉天行〜釜山行”行先板(琺瑯製)





明治四十五年(大正元年)年六月1十五日直行列車運行が
開始されたそうです。王道楽土・沃野開拓を夢見た人達は
下関より釜山に、そして満州へと数10万の人達が、この行
先板の付けられた列車に乗って行った模様です。敗戦前後
に、裸一貫で築いた財産のずべてを失い、命からがらこの
列車で逃げ帰国した方々の辿った路線です。




南満州鉄道 ”奉天行〜山海関行”行先板(琺瑯製)





奉天⇔新民⇔山海関。山海関は、中国大陸と
満州の国境で万里長城の基点であります。





南満州鉄道 ”奉天行〜牡丹江行”行先板(琺瑯製)






奉天⇔哈爾浜⇔海林⇔牡丹江。牡丹江は戦前
より多くの日本人が王道楽土を夢見て行った所
で知られています。





南満州鉄道 ”奉天行〜北京行”行先板(琺瑯製)




北京は、支那の首都です。考えてみれば実に
広大な地域を我国は、治めていたわけです。
改めて戦前の日本人のスケールの大きさに
感心します。





南満州鉄道 ”図們行〜羅津行”行先板(琺瑯製)




満州図們は、現在朝鮮自治区で朝鮮人が多く
住む国境の町。鴨緑江を挟んで向こうは朝鮮
の日本海に面した羅津です。現在は鴨緑江が
国境線となり、北朝鮮に小さな橋が架けられ、
両方に監視小屋が有ります。ここは、北朝鮮の
圧制や飢えから脱北する場所としても有名です。




南満州鉄道 ”大石橋行〜瓦房店行”行先板(琺瑯製)




渤海に突き出した遼東半島の根元に
大石橋が有り、旧関東州の入り口に
瓦房店が有ります。




南満州鉄道 ”一面行坡行〜綏芬河行”
                 行先板(琺瑯製)綏芬河



牡丹江と哈爾濱の中間辺りにあるのが一面坡駅です。
また綏芬河は、牡丹江よりウラジオスットクに向う途中
にある町です。




南満州鉄道 ”齊齊哈爾行〜哈爾濱行”
                 行先板(琺瑯製)




齊齊哈爾(チチハル)は、黒竜江省の省内第二の
大都市であり、省直轄市である。近代に東清鉄道
が建設されるとハルビンが勃興し、新中国が成立
後に省都が移ったが、現在でも黒竜江省西部の
政治、経済、文化の中心であります。市名は、
満州語で辺境あるいは、天然の牧場の意味する
との事です。
哈爾濱(ハルピン)は、中国でもっとも北部に位置する黒龍江省
の省都で、中国東北部の経済・文化の中心の一つで東北経済
地区第二の都市です。19世紀末まで小さな漁村にすぎなかった
ハルピンが劇的な変化をきたしたのは、清朝と帝国ロシアの
不平等条約によって開始された東清鉄道の建設によります。そ
の帝政ロシアの支配の下、人口は急激に増えていきハルピン
は、近代都市として大きな変貌を遂げました。20世紀初頭には
秋林公司や馬迭爾賓館といった現在も著名な欧風建築が数多
く建築され、これらの欧風建築物がある事によって今のハルピ
ンは、東方のモスクワ、東方の小パリなどと呼ばれています。
日本とハルピンとの関係は深く、ハルピンに日本人が増えたの
は、日露戦争が始まった1904年頃からです。この頃には、日本
人の人口が千人を超え、1909年にハルピン駅で伊藤博文の暗
殺事件も起きた事は、日本人の記憶に深く刻まれた歴史であり
ます。









満鉄の三等の切符



下の画像の二等の乗車券も珍しいですが
今となればこの三等の切符も珍しいもので
す。

通遠堡駅より開原駅までの切符です。通遠堡駅は、
安奉線の奉天駅より安東駅に至る14個目の駅に当
ります。開原駅は、満鉄・本線(大連駅〜長春駅)の
大連から45個目の駅が開原駅(奉天駅を超えて9個
目の駅)に当ります。




南満州鉄道★ホテル・お食事クーポン3枚セッ



南満州鉄道発行、HOTEL MEAL-SERVICE COUPON
(ホテルお食事クーポン)の綴り券です。5枚連綴の2円券
2種と4枚連綴の1円券の三種類です。全てに見本の判
が捺されています。中々、珍しい物です。




満鐵留魂碑の建設記念のミニチュア








食玩のおまけのパシナです!





撃沈された大連丸の遺品…乗船記念券(鉛メダル)




この鉛製メダルは、乗船記念と乗船券を兼ねたもの
と思われます。乗船日は、昭和14年7月8日という事
でしょうか。大連丸(3.748t)は、大連汽船所属。
昭和19年11月30日、大連発門司へ向け航行中
、14時10分頃、朝鮮長山串西南海上にて被雷し沈
没。乗客7名が死亡。また船砲隊員7名が戦死。
船員12名が殉職致しました。

メダルの大きさ:直径64mm・厚3mm。

大連丸

建造中の大連丸
上下とも進水式



豪華な内装の大連丸






cf.南満州鉄道株式会社(South Manchurian Railway Co., Ltd.)について

1906年に設立された南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)は、日露講和条約
により、日本はロシアから東清鉄道の支線のうち、長春から大連間の鉄道
施設と経営権を譲り受けました。その際に設立した半官半民の国策会社で
す。中国東北部において鉄道経営を中心に、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農
林牧畜に加えて、ホテル、図書館、学校などの整備を行い、「満洲国」の成
立まで日本の中国東北部経営の中心となりました。日本の対大陸政策の
拠点であり、1916年(大正15)には鞍山製鉄所を設立したのをはじめ、1937
年(昭和12)には直系企業15社、傍系企業75社を要する一大コンツェルン
にまで発展いたしました。



満州帝国 中央銀行発行のマグネサイト貨(陶貨)です。康徳12年の5分と1分
満州中央銀行硬貨−1分と5分マグネサイト貨(陶貨)
康徳12年の5分は発行されていないとの記載があり
ましたが、実際に流通したかどうかは定かではないが
、中国の東北部の農村でマグネサイト貨何百枚の中
で十数枚を見つかったものの一部だそうです。。
満州中央銀行硬貨 五厘(大同3年)と(康徳元年)の2種

康徳8年、昭和16年、満州国通貨の一角のアルミ貨

壹角・康徳元年が2枚、壹角・康徳三年が1枚、
五分・康徳3年が1枚、アルミ貨の壹角・康徳八
年が1枚の計5枚

満州中央銀行−丙号券100円

 発行:康徳11年11月(昭和19年)
 
銘版:大日本帝国内閣印刷局製

満州中央銀行−乙号券100円

 発行:康徳5年4月(昭和13年)
 
銘版:大日本帝国内閣印刷局製造
満州中央銀行 丙号券5角(昭和16年発行)
満州中央銀行 丙改券1円(昭和19年発行)
下は、何故か一枚だけ台湾総督府の一円が入っています。




満州のホテル(旅館)の荷物タグやシール



牡丹江の北満旅館のシールとハルピンの
ハルピン・ナショナルホテルの荷札です。
bag_tag




南満州鉄道株式会社に勤務
   されていた奥山 市之助 元陸軍
            工兵伍長の縁の品々



昭五式軍衣(冬)です。
九八式への過渡期に使用したらしく良くある
立襟に襟階級章を縫い付けた痕が残ってい
ます。肩章留は、取外されています。
昭和十三年製、広支検定です。


昭和15年1月10日にハルピン鉄道第三連隊
第八中隊に入営されておるようです。入営前
に満鉄で奥山氏が使用していた制帽です。

制帽は、顎紐も無くボロボロです。


満鉄の社服です。
本人記載の中で昭和7年1月の日付で
南満州鉄道(株)の記念の…不明。と書
かれておりました。15年の鉄道連隊へ
入営前は、長く満鉄に勤務されて居った
ようです。


こちらも満鉄の社服です。この奥山氏
は、敗戦後も無事に生き昭和21年4月
5日に鹿児島に上陸し4日後に郷里へ
帰還を果たしたとの記載が梱包の箱に
直筆で記載されておりました。




満鉄の外套



旧満鉄の職員外套です。
前釦が5個、満鉄釦以外の物が付いています。また
一度、外套の襟は切られた跡があります。戦後に
改造されたものを修復した物かもしれません。






A級戦犯 元総理大臣 岸信介氏の満州時代の品!!



岸元総理の満州帝国特許発明局々長 時代の商標註冊證。
…又一(株)…現在の(株)又一洋行の繊維製品の商標と思
われます。康徳四年、特許発明局長・岸信介の名があります。

cf.岸信介

明治29年山口県に生まれる。大正9年 東京帝国大学法科大学を
首席で卒業し、農商務省(のちに農林省と商工省に分かれ、岸は
商工省に移る)に入省。昭和11年、満州へ渡り満州国経営に辣腕
を振るう。昭和14年、日本に帰国し商工次官となる。昭和15年、第
2次近衛文麿内閣で商工大臣での入閣を打診されたが辞退。その
後、小林一三商工大臣と衝突し辞職。しかし、昭和16年10月に発
足した東條英機内閣で商工大臣として入閣。その後、大東亜戦争
の戦況悪化に伴い”反東條”に転じ、昭和19年7月に閣内不統一
で東條内閣を総辞職に追い込む。敗戦後、東條内閣の閣僚として
A級戦犯容疑者として逮捕されるが、起訴されずに昭和23年12月
に釈放される。昭和27年4月の講和条約発効後、日本再建連盟を
発足。同年10月の衆議院選挙に立候補者を擁立(岸は不出馬)す
るも惨敗。24年4月の総選挙に外遊先から自由党公認候補として
立候補、当選。昭和29年4月、石橋湛山・芦田均らと共に新党結成
促進協議会を結成。同年11月、自由党を除名されるが、日本民主
党の結成に参加し幹事長に就任。同年12月に社会党の協力を得
て第5次吉田茂内閣を倒し、第1次鳩山一郎内閣を発足。昭和26年
11月に自由党と民主党が保守合同、自由民主党を結成に参加、幹
事長に就任。昭和31年12月の鳩山総裁の後継総裁公選に立候補
するが、石橋・石井光次郎連合に破れる。石橋内閣では外務大臣と
して入閣。石橋首相が病気に倒れると首相臨時代理に就任。昭和
32年2月、石橋内閣が総辞職すると全閣僚留任、内閣を引き継ぐ形
で首相に就任。岸内閣の前半はは勤務評定実施・警察官職務執行
法改定(社会党などの反対で廃案)などが大きな問題となり、後半は
新日米安全保障条約調印・批准に力を注いだ。結果として新安保条
約に関連した一連の混乱の責任をとって、昭和35年6月23日に総
辞職。退陣後は憲法改正運動などを積極的に行うなど精力的に活動
。自民党政権にも影響力を残した。昭和48年4月25日、88歳でこの
世を去る。

歳)




満州国 御賜の煙草五本入(未使用品)








満州帝國大同学院卒で満州帝國
           の高級官僚となった方の資料



三枚とも同一人物。上と下の二枚に”満州帝國”
の透かし文字入りがあります。


その後、この方は、甲種幹部候補生
として陸軍の通信将校になり戦死さ
れたようです。この冊子は、大学の
同期生の有志により、追悼の為に作
られたもののようです。

こちらは、御本人の所持されたもので幹候の日程
や資料、私物の軍刀やら双眼鏡…など酒保で購入
できるものの一覧等など多岐に渡りスクラップされ
ています。








新京首都協和義勇奉公隊の特別班員とある
昭和十四年の修了証。徴兵される前の年です。
”挺身興亜 満州帝國大同学院”の
記載に寄書きのある日章旗
上の勲記より、昭和15年429日現在で陸軍二等兵
でしたが、下の画像のように昭和16年12月1日に
陸軍少尉に任官し昭和17年1月12日には中尉に
昇進しております(戦死後)。
甲幹で日米戦の開戦直前に少尉に任官しています。

少尉任官後の2ヵ月に支那の湖南省で
戦死し中尉に昇進しています。

軍隊に入営する前に満州帝國の国務院
の文官時代の物です。下に拡大しました
が満州帝國政府の記載があります。

上の封筒は、綱脇中尉の母校から
御父上にだされたものです。
綱脇中尉の御父上は、この福岡県、現在の宗像市
でしょうか、勝浦国民学校の教職を務められていた
ようです。画像の封筒のように、この学校の卒業生
で出征した人に故郷の近況から児童からの励まし
の手紙などを送っています。該当者不明で差出人に
返送された封筒がまとまって残っています。校長先
生とか教頭先生とか管理職だったと推察します。
下のような子供達からの便りが詰まっています。
下の物は、郷戸の近況をガリ版で刷ったものです。

これは、面白い葉書です。軍需品商会とあります
が、軍装店が学校の軍事教練で使うグッズの売
り込みの宣伝の葉書です。今も昔も変わらないよ
うです。

満州帝國政府の便箋に御父上に書かれた
手紙の内容は、戦死された御子息の恩給
関係は、満州帝國からも出ると言う内容の
話しです。

戦死した綱脇中尉の友人です。中支から
御父上に慰めの手紙です。

綱脇氏の歩兵科幹部候補生時代
のものと思われます。


通信学校で使用したものです。








練習で使っているものと日記代わりに記載
されているものなどがあります。






     ◇綱脇貞美 陸軍中尉の履歴◇

本籍:福岡県
           大正4年8月2日生


昭和14年3月30日 京都帝國大学農学部卒業

同年 12月20日  満州帝國大同学院卒業

昭和15年3月1日  熊本歩兵第十三連隊補充隊に現役兵で入営。

同年 8月1日    歩兵科幹部候補生、陸軍一等兵に昇進。

同年 10月1日    陸軍上等兵に昇進。

同年 11月1日   甲種幹部候補生に任命。

同年 12月1日    陸軍通信学校幹部候補生師団通信中隊に入学。
             陸軍伍長。

昭和16年2月1日   陸軍軍曹に昇進。

昭和16年7月29日  同校 卒業。陸軍曹長に 昇進。

同年 8月21日    中支戦線 見習士官

同年 11月1日    陸軍少尉に任官

昭和17年1月12日 午後0時30分、湖南省長沙県白沙橋に於いて戦死。
             陸軍中尉に昇進。功五級金鵄勲章授与、勲六等単
             光旭日章を授与。

同年 1月29日    中支派遣部隊にて合同慰霊祭

京都帝大の学生時代の綱脇氏の画像です。

学生証です。





左は、帝大時代の写真で右は、その前に旧制
第六高等学校に在学中の写真のようです。
袴にマントに高下駄…寮歌を歌いながらバンカラ
が行くそんな時代の旧制高等学校のイメージその
ままの綱脇氏です。


左は、綱脇氏の軍隊手帖の中身です。右は、
お兄さんの軍手帖の中身です。お兄さんは、
陸軍軍曹で予備役になっています。




満州帝國(康徳七年) 建国神廟創建紀念の招待状










満州国薬局方…南満陸軍造兵廠の蔵書印が
あります。戦前の満州で発行された、薬品の
解説書です。戦後、中国の機関の蔵書になっ
ていたらしいですが、流出したようです。



ありし日の新京の写真です。







康徳二年発行の満州国官吏録です。


面白いのは、いまの雑誌や本と同じように
郵便為替での発注書が付いています。大阪
の業者になっています。




満州帝国の国民手帳 康徳12年(昭和20年)




指紋の捺印があり、漢民族の姚廷會(男性)、
兵役:無、職業:農民、と吉林省の住所の記載
があります。写真の貼付欄ありますが、貼付
されていません。





満州国陸軍 戦闘帽(略帽:第二種軍帽)



珍しい満州国陸軍の戦闘帽です。顎紐が無いのが最大の特徴です。
階級を示すのか濃い海老茶色(濃ワイン)の一本線が縫いこませて
あります。帽子の裏に”軍政部被服廠附業部製・HOTEN”の標記が
あります。ほぼ未使用の品だと思います。
惜しい事に、五色章(黄・黒・白・藍・紅)の白に虫食いがあります。




満州国陸軍 軍帽(第一種軍帽)の
           前章(
五色星章の七宝焼)







満州国海軍 少尉階級襟章



右の襟章のみですが、未使用の非常に美しい襟章です。
日本海軍と同じ黒絨のこれも同じ金線で一本に”五色梅
花”の徽章が一つ付いています。”五色梅花”の徽章は、
七宝焼きです。満州国海軍少尉となります。

因みに満州国陸海軍の将校の階級呼称は、以下。

尉官:上尉(大尉)・中尉(中尉)少尉(少尉)

佐官:上校(大佐)・中校(中佐)・少校(少佐)

将官:上将(大将)・中将(中将)・少将(少将)

また日本での元帥に当たる称号は、単に将軍と言い
元帥府にあたるものは、将軍府が置かれている因み
に上将以上の4名がこれまでに将軍の称号を与えら
れています。




満州国陸軍の防寒帽



満陸軍官用防寒帽です。
オリジナルの鼻覆いが残っています。
当時の日本陸軍将校で満州国軍の軍官に転じた方も多かった
ので、この品もそのような方が着用し、何らかの事情で内地に
持ち帰った為、現存するものと思われます。画像から判りづらい
ですが記名布に大口または、大田とうっすら墨書き注記が残っ
ています。
非常に珍しく希少な一品です。状態も
非常に良いです。
立襟時代の同一人物の少尉時代と中尉時代です。中尉の右の写真
には、騎兵用のグルメットが軍刀に繋がっているのが見えます。きっ
と騎兵科だったのでしょう。良く見ると判りますが右は、満州国陸軍の
軍服姿(満陸の軍官の軍装)です。左は、日本陸軍の少尉です。日本
陸軍から満州陸軍に転じた方だと思われます。…恐らくこのような方
が軍官の防寒帽を使われたものと思います。




満洲帝国陸軍大学校生卒業者の新任挨拶状



満洲国軍制・将官は、日本と同じ階級名称ですが
佐尉官は少校・中校・上校になってます。




無残に切断された満鉄刀の残骸


満鉄刀の無残な切断された残骸です。
銘文 満鉄鍛造之  (満の上3cmの所に 南 の刻印有)
    昭和癸未春
中茎峰に ヒ 二二六 の刻印があります。
昭和癸未春 → これは、昭和18年春を意味します。この年の
戦局は、1月にガダルカナル島で25.000人の戦死・餓死者を残
して撤退。4月18日に山本五十六 連合艦隊司令長官が戦死。
5月29日にアッツ島守備隊が玉砕等々と日増しに悪くなる状況
でありました。





満州帝國時代、地方軍閥のものと思われる湯呑茶碗



満州帝國軍の物の場合、一番上に黄色がきます。
従いまして満州帝國時代の地方軍閥のものではな
いかと思われます。





満州日報のインク壷



満州帝國時代の新聞社である満州日報のインク壺です。
サイズは、5センチ×15センチ×4センチ。





満州銀行の算盤









満州国皇帝紋章
北満を警備する満州国陸軍の兵士。右は、満州皇帝 溥儀

宮内府 正門
夢幻と消えた国…満州帝國
左は国務院会議後の各大臣。右は軍旗拝受式。





満州国警察の肩章



満州国警察"警尉"肩章
肩章は、梅花章を昇進により加章しています。

左から満州国警察官の通常の制服、防寒装備、正装となります。
ありし日の満州国 治安部庁舎
左が治安部大医于苫山で形式上は
満州国警察の最高責任者であり保
安部(秘密警察)のTOPでもありまし
た。




満州国軍政部之印








満州 独立守備隊警備記念章







満洲国軍外套と軍衣



標記は、康徳五年十二月、新京特別市、被服工廠とあります。

満州国軍の軍衣。貼り付け式ポケット、全体に綿入れとなっています。
旧軍と同様の位置に剣吊がありますので、三十年式銃剣の剣差を使
用していたと推察されます。検定印等は、見当たりません。




満州第七三一部隊のボイラー室の瓦礫



満州(中国東北部)の哈爾浜にあった秘匿名:満州第七三一部隊
関東軍防疫給水部本部があった事は有名です。別名 石井部隊と
言われておりました。この細菌兵器部隊の有名なボイラー室の瓦
礫の一部が画像の物です。現在は、世界遺産に申請しており採取
禁止地区となっておりますが、かなり以前に問題化される前後に調
査に出向いた大先輩から戴いた品です。戦後60年の経過で既に崩
落がはじまっているようです。
左から石井四郎軍医中将、真中の画像は731部隊の専用引込線、右は、ボイラー室。
焼却炉の煙突

731部隊の石井式濾水管です。野戦でも汚水を濾過して安全な水にする装置。
パイプ中央に汚水を入れて圧力をかけパイプ部分で濾過し周囲に染み出た水
は浄化された水となります。石井四郎軍医は、陸軍高官の前で、小便を濾過し
て飲んで見せたのは、有名な話です。石井軍医は、この濾水器により軍内部
で認められ731部隊創設に繋がっていきました。原理的には、ヒチリンと同様
の珪藻土で作られています。直径8cm、全長45cm、両端にアルミの金具がつ
いています。この金具部の両端に”軍事秘密”の文字があります。




南満州鉄道株式会社の奉天及び安東の案内パンフレット



どちらも昭和11年8月25日発行となっています。奉天及び安東の市街地図と見所、
それにその解説が詳しく書かれています。保存状態が驚くほど良く経年のくすみが
表紙にわずかに見られる程度で、大変にきれいな状態です。